お金というもの
「お金というもの」
「お金」ってなんなんだ…
檀家30件の当時ボロボロの「山寺」でずっと考えてきた…
今から20年近く前… お賽銭箱から集めて来た「お賽銭」が「黒く重たい…」と感じた…
ほぼノイローゼだった当時「お参りの方々が願いを込めてお賽銭されたのに、成就してないから、こんなに黒く重いのではないか…」そうとしか思わなかった…
「そうだ!洗おう!」「よし!」と思うまで何度も水を替え洗った…
「よし!」と思った!がしかし、まだ何か足りない…
「そうだ!火で清めるんじゃ!」と鍋を買ってきて炒めた…
「よし!」と思った…
その時以来、毎回「お賽銭」は「水」で洗い「火」に合わす事を欠かしたことはない…
「お賽銭」が光ってる✨
「黒く重たく」感じたのは、その方の背負ったモノが仏さまの前に降りていないという事なのではないか…
いや、わたし自身が人々の背負った「心の荷物」を降ろす場所が「お寺」だと悟れていなかったからだ‼️
「皆さまの悩み苦しみを、御布施やお経に込めて、仏さまにお供え下さい!」
徐々に胸を張って言えるようになった!
そして「必ず熨斗袋に御布施 ◯◯と書いてお供え下さいね!」「郵便番号の書いてある封筒は封筒ですけど、人と人の意思の疎通の為の封筒ですからね~」と若い時から言えるようになった…勇気が必要じゃったな…
和尚さまの中には、ご寄付や御布施を、お供え頂いた際に「申し訳ない…」と仰りお感じになる方がおられる… かつてわたしもそうだった…
でもそれは「自分」が頂いている…という意識があるからなのだ…
ここが「お金」という「モノ」を介しての「世間」と「出世間」の端境じゃと思う…
ここがぶれたら全てぶれる…
「御布施」は「仏さま」に「お供え」されるものなんじゃ! という当たり前の事がわかっていなかった…
山寺ではたまに「一文銭」が見つかる事があるが、江戸時代の方々がやはり思いを込めた「お賽銭」じゃろうが、貨幣価値が変わり通貨で無くなったら「お金」では無くなるんじゃ…
「お金」の本質は「循環」する「モノ」という事じゃと思う…
「願い」がこもると「循環」しなくなるのではないか…
「思い」がこもると「重たく」なるのではないか…
「仏さま」への「お布施」ならば、全てが「軽く」なる筈なのではないか…
でも、なってなかった…
だから、以来ずっと「洗い」「炒め」て、「御布施」から「手数料」引かれて金融機関に預け入れている…
毎回、心が「すっと」するのだ…
いずれ今の「貨幣」も「電子マネー」になったら「お金」じゃ無くなるんじゃろう…
「お金」とは「お金」自身の問題じゃなく、それを扱う「人の振る舞い」の問題なんじゃないだろうか…
あかん…また「山寺」の奥を露出してもうた…
普通は「本」に書くんじゃろうな…
「山寺」は生々し過ぎるm(_ _)m
来る6日は種まきの「芒種」です。
感謝合掌