伝 恵慈和尚
Eiji osyo
「伝 恵慈和尚」
木造
像高七〇・七
平安時代 十世紀
山口・般若寺
慧慈は飛鳥時代の高句麗出身の僧で、推古天皇三年(五九五)に百済僧慧聡とともに来日し、
聖徳太子に仏の道を説いた師として知られている。
『聖徳太子伝暦』によれば、高句麗に帰国したのち、太子薨去の報を聞いた慧慈は
大いに悲しみ、自ら一年後の太子の忌日に死すことを宣言して、その通り明年二月二十二日に亡くなったという。
本像は、褊衫・裙・袈裟・横被を着け、右足を上に安坐する僧形像。
近年の調査で平安時代に遡る古像であることが確認され、
令和三年(二〇二一)に保存修理が実施された。後世の彩色が施されていたが、修理により彩色が除かれて像容を一新している。
ヒノキとみられる針葉樹材による一木造で、両手首先を除く、両肩・膝前も含めた頭体幹部を一材より彫出し、脚部中央に木心を込める。内刳りを施さない一木造の構造や、鋭利な彫口の面貌表現、脚部・腹前・袖部の衣にみられる翻波式衣文など、構造や作風は総じて古様であり、十世紀に遡る作と判断される。
無数の深い皺をあらわす面貌の表現は、奈良・岡寺義淵僧正像をはじめ法隆寺伝観勒僧正像などに類例がみられ、本像も「聖僧像」や「僧形文殊像」として造像された一連の僧形像の系譜上に位置付けられる。
本像ももとは「聖僧像」として造立され、後世に慧慈像の伝承を付して崇拝されるようになったものであろう。
山口・般若寺は、用明天皇元年(五八六)、橘豊日皇子(即位前の用明天皇)の妃で、大畠の瀬戸の荒波を鎮めるために海に身を投じた般若姫の供養として、用明天皇の勅願により、慧慈が開基したと伝える。慧慈像の古例は、法隆寺聖霊院本尊聖徳太子像の従者像を数えるのみであり、ゆかりの当地に慧慈の古像が伝来することは地域の信仰史上においても重要である。
令和四年(二〇二二)、慧慈和尚千四百年遠忌を迎えるにあたり、
肖像彫刻としては山口県最古級となる本像が見出されたことはきわめて意義深い。
寺外初公開。
【参考文献】
・三田覚之
『神峰山用明院 般若寺 伝恵慈坐像 調査報告書』(未刊行) 二〇二一年
2022年(令和4年)1月1日(土・祝)~2月20日(日)
四天王寺 令和四年 新春名宝展
特別公開 ※四天王寺ホームページより
復興物語
〜リンクを開くとFacebookにてご覧いただけます〜
2021年2月
復興事業スタート
・中外新聞にて事業の掲載
2021年 7月
伝 恵慈和尚像!修復完成!
「聖徳太子 日出処の天子」
・大阪市立美術館
9月4日~10月24日
・東京サントリー美術館
11月17日~1月10日 にて展示
2022年1月
四天王寺宝物館にて展示
1月20日~2月20日
伝 恵慈和尚の供養塔が完成
2022年2月・3月
「四天王寺 伝 恵慈和尚」
「開眼(御魂入れ)」
および大法要
「伝 恵慈和尚」1400年
御遠忌並落慶法要